大学生になって一人暮らしをはじめた私は、食費を削ればその分小遣いが増えると考えて、毎日米を炊いて納豆だけを食べる生活を続けていました。たまに食べる吉野家の牛丼特盛が週一回程度の贅沢でした。それでも少し東京に慣れるとそんな禁欲感は失われ、まずはファーストフードからその食欲の食指を広げていきました。大手チェーンのピザのMサイズが持ち帰りなら500円、マクドナルドのフィレオフィッシュが120円というそんな時代だったからかもしれません。
田舎者の私は、当時も相当有名だった二郎を全く知りませんでしたが、駅の近くで豚の煮える強い匂いを放つこの店は訪問の最右翼となりました。最初の訪問の記憶はあまり残っていませんが、注文のシステムを把握することで精一杯だった気がします。ニンニクの味が強烈で、「もう行かないな」と思いましたが翌日には食べたくなり、それからは週に2~3回程度訪問させてもらいました。明らかに早めの時間の方が、おいしいことを知り、行くときは開店の15分程度前から並びました。当時はそれでファーストロットを確実に奪うことができました。
当時の仙川次郎は相当に食べましたので、味を鮮明に覚えています。小麦をこねずに、ただ水をかけて強く圧縮したような低加水のザクザクとした食感の麺。今にして思えば日本蕎麦に通じるところあったような気がします。噛む度に水に触れていない(そんなことないんですけれど)小麦粉のクリスピーな粒子が口内で弾けるような香り高い麺でした。永遠に嚙み切っていたいような食感と唇への当たりが鮮明に思い出されます。また、完全に非乳化(早い時間であれば)のスープは、その分油の香りが高く、黒い色の割に塩味がやさしい逸品でした。スープだけを飲んでもそれほどでもないのに、主張の強い麺とニンニクとの相性が抜群で、主役を邪魔しない名助演でした。主に腕肉が使用されていた豚は、しっとりと柔らかく脂っぽさのない出来でした。あんな豚はもう食べることができないと確信しています。また、あんな豚を覚えなければ私はもっと、能天気なラーメン人生を過ごすことができていたのかもしれません。豚の嫌な部分は、全部湯気になって消えていく仙川次郎はジャンク性の欠片もなく、繊細な構成の各部門が折り重なった重厚な名品でした。
店内はだいたいが若い男性で、カウンターの上に張られた慶応大学出身者の立派な会社(大手損保が多かった気がします)の名刺を睨みながら、身を寄せながら二郎に食らいついていました。核分裂前に分子が揺れてお互いに作用するような、そんな未来に向けた若くて青い熱気があの店にはありました。
挨拶を全くせず調理風景を睨む私は、当時の店主の松田さんに嫌われていました(当時の私はとがり方を間違えていた節が多方面にありました)。でも、たまに目が偶然合って会釈(反射的にであって、本当はしたくなかったんですが)なんかすると、豚が二列とも(いつも注文は大豚ダブルでした)肩ロースだったりしました。もう、その豚の美味しいこと。豚のいいところしか残していない芳醇な味わいは筆舌に尽くせませんでした。また、「オーダー間違えた。それ大じゃなかった。すいません」と言って、小ラーメンがまるまる追加されたこともありました。量的にオーダーは当たっていましたので、完食に苦悶した記憶が鮮明に蘇ります。
四年間お世話になった最後の訪問の時、初めて松田さんに「ご馳走様でした」と大きな声で言いました。見ていないようでカウンターの全てを把握されていた松田さんは、忙しい中じっとこちらを向いてくれました。少し遠いけれど、年に一回くらいは来れるかなと思っていましたが、なかなかそうもいきませんでした。それから程なくして松田さんは逝去されたということです。どうして亡くなったかは存じませんが、あれだけ美味しいものを作ることができる人が天国に好かれるのは、当然のような気がしないでもありません。
あれから開発が進んで、商店街から東は別の街の様相を呈している仙川も二郎の一角は当時のままです。数年に一度訪れますが、あの熱気と味わいと、当時の自分を思い出して胸が熱くなります。私が天国に行った時に、松田さんにお会いするのが今から楽しみです。きっと、「ニンニク、ヤサイ」って不愛想に言えば覚えていてくれると思うんです。